■ 雅楽の伝来と変遷 ■
5世紀前後に中国や朝鮮半島から儀式用の音楽や舞踊が伝来、古来よりあった日本独自の歌舞と習合し「雅楽」として成立しました。奈良時代には東大寺大仏開眼法要などの行事で大規模な集団での演奏形態がとられていましたが、平安時代に規模は縮小され、貴族が自ら雅楽を奏でるようになり、日本特有の雅で優雅さを備える音楽として発展していきました。その後訪れた戦乱の世で雅楽は衰退することになりますが、天下統一した豊臣秀吉の援助のもとで宮中に「三方楽所」(さんぽうがくそ)が設置されました。江戸時代においても徳川幕府の保護により三方楽所を中心に雅楽は展開していきました。
◆ 「三方楽所」とは
安土桃山時代に正親町天皇、御陽成天皇などの命により、それまで四散していた京都の楽人が都に帰還し、これが雅楽復興の足場となった。三方とは京都方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)のそれぞれの楽所を指し、ここに所属する楽人を「三方楽人」と呼ぶ。
●京都方(4家) | 多(おおの)、山井(やまのい)、安倍(あべ)、豊(ぶんの) |
●南都方(8家) | 上(うえ)、西(にし)、辻(つじ)、芝(しば)、奥(おく)、東(ひがし)、窪(くぼ)、久保(くぼ) |
●天王寺方(5家) | 太秦(うずまさ)、薗(その)、林(はやし)、岡(おか)、東儀(とうぎ) |
■ 雅楽の形態■
演奏形態により「管弦」「舞楽」「歌謡」にわけることができます。
◆ 管弦(楽器だけで演奏) | 管楽器―笙(しょう)篳篥(ひちりき)龍笛(りゅうてき) |
弦楽器―箏(そう)琵琶(びわ) | |
打楽器―鞨鼓(かっこ)楽太鼓(がくだいこ)鉦鼓(しょうこ) |
◆ 舞楽(音楽に合わせた舞踊) | 左舞―伴奏は中国起源の唐楽 |
右舞―伴奏は朝鮮半島起源の高麗楽 |
◆ 歌謡(楽器の伴奏をつけた声楽) | 国風歌、催馬楽、朗詠の三種類 |
<雅楽の演奏で使用される楽器>
■ 日光楽人(東照宮楽人)の創設■
東照宮に楽人が創設されたのは、寛永の大造替が終わり、今の東照宮の建物が完成した年の翌年にあたる1637年(寛永14)です。「東照宮奉仕者沿革史料」には同年、三代将軍家光の上意により、三方楽人(南都方)の中から「師家*」と呼ばれる日光楽人の指導役数名が選ばれ、以来1844年(弘化元)まで約200年の間に渡り師家は10数回京都から日光に来山して東照宮楽人の指導にあたりました。
*日光楽人創設時の師家(3名):辻近元、久保丹後守、上佐兵衛尉
日光における楽人の選定には師家からの進言があり、天海僧正が衆徒や社家に申し付け、家柄のしっかりした以下の家が選定されました。
担 当 | 家 名 | |||||
笙 | 関 | 黒川 | 金谷 | 長沼 | ||
笛 | 斉藤 | 伴 | 新井 | 船越 | 上松 | 柳田 |
篳篥 | 小野 | 植木 | 大森 | 篠原 | ||
舞 | 片岡 | 塩沢 | 青木 |
■ 楽人金谷家■
*東遊:雅楽の組曲。天女の舞を模したのが始まりといわれ、古代東国で
流行ったことから東遊びの舞と称される。現在でも春秋の東照宮例大祭には演じられている。
世 | 氏名 | 生年 | 没年 | 奉職 期間 |
三方楽人の日光来山年と指導内容 | |
初代 | 金谷 外記 忠雄 | ? | 1656(明暦2) | 20年 | 1637年(寛永14) 1640年(寛永17) |
音楽伝授 音楽伝授 |
第2代 | 金谷 造酒 行雄 | ? | 1708(宝永5) | 53年 | 1706年(宝永3) | 東遊舞曲伝授 |
第3代 | 金谷 帯刀 壽雄 | ? | 1750(寛延3) | 31年 | 1715年(正徳5) | 東遊歌伝授状拝受 |
第4代 | 金谷 帯刀 敷雄 | ? | 1755(宝暦5) | 15年 | ||
第5代 | 金谷 丹下 長雄 | ? | 1785(天明5) | 12年 | 1770年(明和7) 1781年(天明元) |
東遊歌曲伝授 舞曲三曲伝授 |
第6代 | 金谷 帯刀 保常 | ? | 1805(文化2) | 41年 | 1801年(享和元) | 東遊舞曲井舞楽五曲伝授 |
第7代 | 金谷 仲 智雄 | ? | 1817(文化14) | 13年 | 1805年(文化2) | 東遊舞曲井舞楽二曲伝授 |
第8代 | 金谷 主税 永徳 | 1811(文化8) | 1873(明治6) | 31年 | 1813年(文化10) 1844年(弘化元) |
東遊舞曲井舞楽二曲伝授 東遊歌曲伝授 |
第9代 | 金谷 善一郎 | 1852(寛永5) | 1923(大正12) | 33年 |
<笙の楽譜>
第3代輪王寺宮 公辯 法 親王 1690 1715 )の 直筆による笙の楽譜
<東遊 伝授状>
正徳5年( 1715 3 月 三方楽人多忠 壽から金谷帯刀壽雄に授 けられた東遊伝授状
■ 日光楽人の住居 ■
1637年(寛永 14 )の 東照宮雅楽の 楽人となった家は 、神橋を境にした東町と西町に分散 して居住させられましたが、後にそのうちの 四軒が西町に移されました。 これが「四軒町」という町名の起こりです。
戦後の住居表示法公布により、1969 年(昭和44)に四軒町、袋町、中本町、下本町が統合され「本町」となり現在に至ります。
「東遊」が初めて日光楽人に伝授された1706年(宝永3)の時点では、大半の楽人 が「 四軒町 」 に 住んでおり「楽人町」とも呼ばれていました。 1765年(明和2)の西町の町並みを描いた 古地図 に はそれぞれの家の住民の名前が 書きこまれています。 楽人が集まっていた町の部分をまとめたのが以下の図です。
この時点では、金谷家は後に住居となる「日光奉行所御殿番 小野善助」の屋敷から道路を挟んで 斜め前に住んでいたことがわかります。
1799年(寛政 11 )に楽人20名の内、上位5名が六位侍に叙せられた際、金谷家六代目当主の金谷保常(帯刀)も選ばれて因幡介に任じられました。
その頃、日光奉行所で組織変更が行われ、御殿番の小野が屋敷を引き払う状況に陥ったと推測されます。 このような中、官位も授けられ、帯刀も許されていた金谷保常にその屋敷が与えられたと考えられます。
それが今日も残る「金谷侍屋敷」の始まりと言えます。
■ 楽人 金谷善一郎 の人生 ■
金谷家9 代目当主、金谷善一郎は 1852 年( 嘉永 5 金谷主税永徳の 次男 として 誕生しました。
1867年(慶応 3 、 善一郎が 15 歳の時に大政奉還が行われ、東照宮は徳川幕府という後ろ盾を失いました。
明治新政府の改革の波は日光にも押し寄せ、「神仏分離令」によりそれまで神仏混淆であった日光山は二社一寺(東照宮、二荒山神社、輪王寺)に分離されました。
父の永徳を1873 年(明治 6 )に失い、 長男は那須郡佐久山の八木澤家の養子となったため、 善一郎は若干20歳で金谷家の家督を相続することになりました。 そのころには東照宮の状況も落ち着き、
雅楽の存続も認められたため、善一郎は楽人としての役目も引き継ぎました。しかし、東照宮の経済状況は江戸時代のように満ち足りたものではなく、楽人の給与も減給されました。
金谷家の人々の生活も時代の流れの中で大きく変化することになっていきます。
東照宮から金谷善一郎に渡された給与 (明治 21 年 12 月 30 日)
もう一人善一郎の人生に大きく影響したのが1878 年(明 11 )にこの宿に宿泊したイギリス人旅行家イザベラ・バードです。
バードも金谷家の環境やもてなしを高く評価し、著書 U nbeaten Tracks in Japan 日本奥地紀行)の中で 細かくその素晴らしさを記述しました。 |
Kanaya leads the discords at the Shinto shrines; but his duties are few, and he is chiefly occupied in perpetually embellishing his house and garden.
金谷は神社(東照宮)に楽人として勤めているが、仕事がほとんどなく、主に自分の時間を自宅と庭 の手入れに使っている。
Kanaya is the chief man in this village, besides being the leader of the di ssonant squ eaks and discords which represent music at the Shinto festivals, and in some mysterious back region he compounds and sells drug s.
金谷はこの集落の長であり、 東照宮で儀式の時に演奏されるキーキーという不快な音楽のリーダー的 演奏者でもある。また、自宅の裏の方で怪しげな薬を調合して売っている。
The life of these people seems to pass easily enough , but Kanaya deplores the want of money ;
he would like to be rich and intends to build a hotel for foreigners.
金谷家の人々は生活に困っているようには見えないが、 金谷(善一郎)は金持ちになりたいと願っていて、 外国人のためのホテルを建てることを考えている。
これらのバードの記述から金谷カテッジイン開業 1873年(明治 6 )から5年後の1878年(明治 11 の時点でも、善一郎は楽人として 東照宮に勤務しながら、宿業を営んでいたこと、将来 外国人のためのホテルを持ちたいと思っていたことがわかります。
後に楽人を辞し、1893 年(明治 26 41 歳の時に念願の本格的な西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」を大谷川沿いの高台に開きました。 金谷のサービスや設備は 日光を訪れる多くの外国人に高い評価を受け 、その名前は国の内外で知られるところとなります。
1917年(大正 6 長男眞一に家督を譲り、善一郎はホテル経営の第一線からは引退し、1923年(大正 12)71歳でその生涯を閉じました。